(公財)日中技能者交流センター 星 知志穂
教育交流部に配属された私は、中国に派遣される日本語教師の研修会を担当することになり、私自身も研修に参加した。
西尾研修所は、中国やベトナムからの技能研修生たちの企業派遣前1か月研修に使用していた施設であり、教室・職員室宿舎・食堂を兼ね備えていた。1年に1回、春の一時期だけ日本人退職教師たちが宿泊研修を行っていた。
研修会の初日は、北は北海道、南は沖縄と全国各地から中国派遣日本語教師の候補者が続々と西尾研修所へ到着する。
到着した教師たちは、受付でまず部屋割りのくじ引きをドキドキしながら引き、それぞれの部屋へ。この運命の出会いのくじ引きから、これまで面識の無い者同士2人から最大4人部屋の共同生活がはじまるのだった。
3週間の研修では、「日本語教授法」「日本語の教材」「中国の風俗習慣」「先輩派遣教師の経験談を聞く会」「派遣の手続き」等、様々な内容の研修を行った。特に多くの元国語教師たちが戸惑っていたのは、これまでの国語文法で日本語を教えるのではなく、日本語教授法で学んだ日本語文法で日本語を教える方法だった。
私が受講した授業の中で一番印象に残っているのは、「直接法」の授業である。日本語を教える時に、他の言語を補助的に使わずに、日本語のみを使用して授業を行うというのだが、その「直接法」を生徒の気持ちになって受講生に体験してもらおうと、日本語普及協会の講師の方が丸々1時間インドネシア語のみで授業を行ったのだ。
はじめは何も聞かされていないので、「???」何が始まったのか、何語なのか、先生が何を言っているのか、皆必死になっていたが、授業は大いに盛り上がった。インドネシア語は、ほとんどの受講生にとってなじみがなく、全くわからない言語で丸々1時間授業を受けたのだが、授業が終わったころには、受講生同士で習ったばかりのインドネシア語で「挨拶」や簡単なやりとりを使ってコミュニケーションをとれるようになっていた。
西尾研修所での1日の生活は、早朝に有志で行うラジオ体操からはじまる。研修所の入口前に沢山の教師が続々と集合。「おはようございます!」の元気な挨拶が飛び交い、ラジカセから流れる音楽にあわせ、一緒にラジオ体操を行った。年によっては、太極拳が趣味の教師がいて、みんなで太極拳をやったこともあった。
その後離れの食堂に集まって一同で朝食。午前中の授業の後の昼食、午後の授業後の夕食も皆同じ時間に一緒に食堂で食事をした。当時調理を担当していたのは、中国職工対外交流中心が派遣してくれていた上海の海鴎飯店の調理師さん2名と、当財団の西尾研修所の職員だった。中国に赴任する前に中華料理に慣れておくという意味でも良かったという声も多かったし、中国の調理師さんとのちょっとした挨拶や交流も皆楽しみにしていた様子だった。
朝のラジオ体操からはじまり、机を並べての研修、3食同じ釜の飯を食べ、寝食をも共にした仲間は、3週間の研修を終える頃にはいつしか強い絆でつながっていた。この絆は、中国に赴任してからも続き、中国各地へ赴任した先でも教師同士、連絡を取り合い助け合っていた。
赴任後、ある教師が、学校の周りに日本語で相談できる相手もおらず、食もなかなかあわず、生活環境にも慣れず、そして授業の進め方などにも悩み落ち込んでいると知り、赴任校は異なるが同じ省に赴任した教師たちが、週末に当該教師に会いに行って話を聞き、励まし合い、時には一緒に日本食を食べるなどして、つらい時期を乗り越えたという話を聞いた。
また中国の広い大地で赴任地がかなり離れていても、メールや電話で連絡を取り合い情報交換し、お互いの悩みを聞き、励ましあい、大きな休みには落ち合って一緒に旅行に行ったという教師たちもいた。
赴任後約半年経った頃に北京で開催される「北京経験交流会」では、西尾研修所での仲間や先輩教師と再会し、それぞれの赴任地での授業や生活のことについて情報交換を行った。中国での日本語教師の経験について、当時の派遣教師からは、「生活環境面で苦労する点も多いが、学生の真面目さ熱心さに直に触れることができて教師冥利に尽きる」という声が多く聞かれた。
西尾研修所で会った時と、北京経験交流会で会った時とでは、目や顔の表情が異なり、より活き活きとしエネルギーが溢れている様子が感じとれ、職員である私の方が派遣教師からパワーをもらい、その力がまた翌日からの仕事の励みとなったのを覚えている。
このように、西尾研修所で一堂に会し日本語教師研修会を受講した教師たちは、『西尾第〇期』として、中国へ赴任し、帰国してからもなお強い絆でつながり、2023年春に当財団へご報告をいただいた『西尾第12期会』『西尾第13期会』の集いは、今も20年以上にわたり交流を続けている。
(2023年7月1日号の当財団ニュース記事はこちらから)
西尾研修所 日本語教師研修会 集合写真