日本語教師の記録 No.006

二つ目の故郷

中條 朋子
【赴任勤務歴】2001年度から2003年度 延辺大学農学院 吉林省 延吉市
       2006年度 天津濱海国際語言学院 天津市
       2007年度から2009年度 青島濱海学院 青島市
 
         ※赴任勤務歴は派遣先学校の年度(9月始業から8月終業)に合わせて記載
         ※学校名は派遣当時の名称で記載


1 日本語教師として、旧満州や日本ゆかりの天津青島へ

漢語(ハンイュー)のふるさと訪ね幾千里
     異郷も住めば都となりぬ


馬主任から贈られた朝鮮族画家が描いた油絵

 今家には、延辺大学農学院外語センターの馬主任から贈られた、中国東北部山里の風景を描いた油絵があります。朝鮮族の画家が描いたもので、大きさは100CM×65CM、大型です。
 5年にわたり在籍したこと、また延辺大学中国語教授でいらした主任の奥様の著書「観光中国語」を、研究室の老師のご協力を得ながら日本語に翻訳し、学生たちのテキストとしたことに、主任が労をねぎらってくださったのでしょう。テキストは授業で使用したり、次に赴任した天津濱海国際語言学院でも学生たちにプレゼントできました。
 また、老師たちが贈ってくださったのは刺繍「百鶴図」です。太陽が降り注ぐ松の大枝に、百羽の鶴が乱舞しています。これも大型で130CM×70CMあります。
 青島市の青島濱海学院では、9月の老師節に、学生たちが、一生懸命節約する生活の中でお金を出し合って京劇人形や花絵の壁掛けなどを買い、「老師節おめでとうございます」と休暇明けの新学期にプレゼントしてくれました。内蒙古や各地の故郷から持参した心のこもったお土産などもたくさんあります。 今それらはどんな些細なものであっても学院生活の思い出と共に宝物です。

朝族の大姐(ダーヂエ)歌ふ日本の唱歌
      時に童謡時には軍歌


朝鮮族の大姐と農学校のキャンパスで(金田さん(右)金さん(中))

 初めに行った延辺は、旧満州(吉林省朝鮮族自治州都延吉市に近い龍井市)にあります。市内には当時の東北部の日本領事館や満鉄、日本人住居、日中戦場、万人坑などが残っており、それらの一部は歴史教育の資料ともなっていました。農学院の校舎の一部も日本人が建てたと言われていました。私は主に中級クラス担当でした。大学生、大学院生、一般の社会人など、日本語を身につけて役だてたいという人たちのクラスで、授業は会話担当でした。
 学生たちの両親や祖父母には日本語を話せる方が多く、比較的身近な言葉という認識があり、学校で習う外国語も当時は英語でなく日本語でした。中学校の老師は(学生の中に教師がおりました)高校受験で日本語を選ぶと得点が高い、と言っていました。  
 まだ第2の経済大国だった日本企業は、給料が高いので、青年たちは何とか現地の日本企業に就職したい、日本の専門学校や大学、大学院へ留学して日本で働きたいという夢をもっていました。しかし、現実は彼らにとって桁違いのお金と留学ビザと言う高いハードルがあり困難が伴いました。それでも彼らはほんとによく勉強しました。   
 研究室に慣れてきたころ、日本軍に協力して一緒にハルピンで戦ったのに、何の見返りもない、何とかしてくれと朝鮮語(韓国語)で飛び込んで来た男性がいました。老師たちは困って、ここはその話し合いの場ではないと引き取ってもらい、私は瀋陽の領事館にお話しください、と言いました。 
 ある日宿舎に年配の女性が訪ねて来られました。その方は近くに住む自称金田さんという朝鮮族の方で、敗戦後帰国しそびれて孤児となった日本人の男性と結婚された方でした。男性は収容所を経てセンターに日本語教師として勤めていたとのこと、金田さんは日本人女性が来たと聞き、会いに来ましたとおっしゃいました。
 日本人と間違うほど日本語が上手で、時々住まいに呼んではご馳走してくださったり、日本人の旦那様の話をしてくださいました。友だちに、日本軍の野戦病院で働いたという金さんが近くにお住まいで、時には金さんの住まいでも、当時の四方山話をお聞きしました。
 延辺を去る時金田さんは、「あと1年残ってください」と拝むように何回もおっしゃいました。しかしセンターの都合で希望に添えず、別れがほんとに辛いことでした。  
 天津市や青島市の開発区には日本企業が沢山進出していました。日本語を教える大学や学院(日本の専門学校や単科大学に当たる)はいくつもあり、学生たちは非常に熱心に勉強するのですが、日本企業の採用人数は少なく、特に天津では地元市内の学生が優先採用で、内蒙古など遠方から来た学生たちは不利で気の毒でした。 

2 民間の大使として

和紙配り時経ぬほどに人形に
なりて教室華やぎかへる

 日本人の文化は、「源氏物語」以前から中国大陸の影響を多分に受けているのではないでしょうか。よしそれなら今度は自分なりに日本の文化を中国に紹介してみたいと思いました。
 幸い派遣者の槙枝氏は「皆さんは日本語教師であると同時に民間の大使でもあります」と激励してくれました。
 青島濱海学院では、その試みとして、学生たちと和紙を使ってしおり人形作りをしました。作り方の説明も勉強になるし、めいめいの工夫で自分の人形ができ、教室は沸き返りました。和紙の色彩や日本独特の自然美を表わした模様が学生たちをひきつけ、着物や髪形のかわいらしさなども加わり、人気の授業になりました。
 また、「四季の歌」「知床旅情」「バラが咲いた」などの歌も、楽しく日本語の基礎が学べるので、毎回授業の中にはさみ、理解の助けとしました。当時はテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」が学生たちに人気で、日本語の歌詞を教えてとせがまれたり、谷村新司の「昴」も好評でした。
 宿舎には、学生たちが放課後も休日も来てくれました。延辺では大学院生がアルバイトで中国語を教えてくれたし、中国の様々な生活習慣も教えてくれました。時には宿舎に来て「キンパ」などの朝鮮族食を作ってくれたり、買い物や外食などに同伴、それらはどんな些細な行為であっても彼らの心からのもてなしでした。時には我が家に招待してくれ、鶏をつぶして歓待していただいたこともありました。
 私たちを受け入れてくれた政府国家外国専家局の担当者は「世界三大料理の中国料理も楽しんでください」、と言ってくださいました。そこで、青島では、学生たちと放課後や休日に当地の食堂に集い、彼らからお勧めの料理の注文を出してもらって食事会をしました。
 日本料理も紹介したいと計画し、寿司作りを体験してもらうことにしました。5,6人ずつ部屋に呼び、海苔巻き、茶巾寿司、稲荷寿司に挑戦です。
 材料は現地市場で調達した地鶏肉ソーセージ、韓国たくあん、手製の厚焼き卵、日本から持参した干瓢など。韓国食店にあった油揚げは稲荷に、手製の薄焼き卵で巾着に。部屋は学生たちの驚きや歓喜の声でいっぱいになりました。

姑娘(クーニャン)は「さくらさくら」を踊らむと
        日語の学びはずみかかれる


学生たちと「さくらさくら」を踊る(青島濱海学院の学園祭)

 青島濱海学院では新年に学園祭がありました。日語科の胡主任から「学生たちは、[さくらさくら]の歌を知っています。優秀な学生5人を選びますから、踊ってくれませんか」というお話がありました。日本舞踊を紹介する願ってもない機会でした。
 夏休み後の新学期になって、宿舎に5人を呼んで、(その中には主任の娘さんもおりました)練習開始、ついでに着物の着方、たたみ方、帯の結び方、扇子の使い方なども教えると、すぐ覚えてくれました。
 当日、新年の寒い講堂には、各科の代表の学生や老師たち何千人か集い、熱い視線が注がれる中、花柳流の子供向け日舞でしたが、無事発表できました。5人の学生は真冬の浴衣でしたが、寒さにもめげず、初めての華やかな舞台経験に緊張し興奮していましたが、終えると互いに喜び合いました。以後の学園祭では「かごめかごめ」など日本の子供の遊びなども紹介しました。
 花をめでる習慣がない中国、研究室で学園の周辺から採った草木花を使い、生け花も紹介することができました。 

母刺しし飾り草履と主任(ジューレン)は
       赤青桃黄お礼にと言ふ

 胡主任は切り絵と、「母が作りました」と刺繍の飾り草履をくださいました。 

3 しまいに

 昨年、「やっと先生の住所わかりました。私は○○です。延辺大学で日本語教えてもらって、日本に来ました」と突然電話が来ました。彼女はすっかり日本社会の一員となって働き、結婚して2児の母となっていました。あと3年で中国で過ごした年数と同じになると言います。  
 ご主人と二人の子供を連れて会いに来てくれたのは、愛知県に住む大学院生だった紅蘭さんです。日本での永住権がとれたとのこと。
 昨年は日中国交回復50周年でした。奇しくも「当学院は今年創立30周年になりました。中国においでください」と青島濱海学院の金老師から誘いの電話もいただきました。  
 ほとんどの中国人は日中戦争は過去のこととして、今の社会を生きていました。青島を去った2011年、学院周辺は道路も建物も日に日に整備高層化し、学生のフアッションは既に以前から人民服の面影すらありませんでした。老師から「もう1年いてください」と声を掛けていただきながら、家庭の事情で帰省せねばなりませんでした。  
 教え子の学生たちには儒教精神が生きておりました。親や師を大切に、友と清貧にも甘んじながら、一生懸命学習に取り組む姿は、未来の中国を担う姿です。大切な隣人でもある彼らと、残る人生手を携えていきたい。  
 10年間貴重な体験をご支援くださった日中技能者交流センターの故槙枝氏、古川氏、中国国家外国専家局の袁先生、李先生、関係者の方々、そして家族にも心から感謝したい。ありがとうございました。


「学生たちが好きな馬蹄山で(麓を満鉄が走る)」

「老師たちと卒業のころ(青島濱海学院)」