日本語教師の記録 No.005

今もなお続く日中友好交流

田中 恒生
【赴任勤務歴】2003年度から2004年度 同済大学 上海市
 
         ※赴任勤務歴は派遣先学校の年度(9月始業から8月終業)に合わせて記載
         ※学校名は派遣当時の名称で記載


 日中技能者交流センター西尾研修所で研修を受け、中国へ派遣されたことは、私の人生のターニングポイントでした。20年前、上海同済大学に派遣されたのは同期より2年遅れでした。ですから、前任者も前前任者も同期でした。任期は1年と思っていたところ、大学側からもう1年という要請があり、日中技能者交流センターに問い合わせ、許可を得て2年在籍しました。お陰で学生たちとの交流も深まり、移り行く上海の様子を十分に堪能することができ、意義深い2年間を過ごすことができました。
 学生達とは四六時中一緒にいたような気がします。日本の新聞のコラム欄でみつけた「千の風になって」という詩を授業で扱ったところ、彼らの心に大きく響くものがありました。長期の休みで帰国しますと、この詩に曲がついていたので、学生へ土産に楽譜を買って行きました。歌手秋川雅史が歌いだしたのはそれから後のことでした。日本語8級試験(中国の大学で行う日本語統一試験、日本の1級試験程度に古典を加味したもの)が迫った頃、学生の要望もあって、急遽古典の要点を授業しますと、非常に高い意欲を見せました。中国の若者たちの試験に対する姿を見たような気がしました。反日運動が激しく休講になった時、ゴールデンウィークと重なりましたので、出席日数不足で単位の習得が難しいと思われる短期学部の学生数名を呼び出し、集中補講をしました。校舎は閉鎖されていましたので教室を使えず、校舎の中庭やわたしの宿舎でしました。この数日間一人も欠席しませんでした。短期学部の学生のなかには欠席せざるを得ない事情を抱えている人もいることがわかりました。
 日曜日は歴史散歩と称して、学生の一人か二人を連れて、市内を巡りました。孫文・魯迅、毛沢東などのゆかりの地や上海城内の旧市街地の入り組んだ家並みなど。文革で破壊されたお寺が工場になった所や被害にあった著名人の屋敷の生活の様子などあらゆるところに行くようになりました。時代の移り行く変化の激しさは日本の戦後の発展の凝縮と未来への進展とを混然としたようなものでした。この見聞は楽しくてたまりませんでした。 帰国後、数年たって日本での教え子とともに再び中国の大学を訪れることになりました。彼は会社の幹部になり、将来社長へ嘱望されていました。彼が言うには中国人を一人採用したい、中国の会社を将来担当させたいからだと。当時、中国での欧米と日本との企業の違いは、欧米は現地のトップを現地人に任せる。しかし、能力がないと判断するとすぐ解雇する。日本の企業は中国の会社のトップを中国人に任せないで日本人にするが、簡単に解雇しないで教育し育てる。彼の考えは若い中国人を採用して、長年かけて会社で育て、やがて現地の会社を任せたいという、その考えに賛同して、同済大学に連れて行き、日本語科の主任に会ってもらい、日本語科の先生方との懇談の席を持ちました。
 学生たちは卒業後、わたしが中国の研修所にいる時、しばしば訪ねて来ていましたが、帰国している時は自宅にも訪れるようになりました。初めは京都や大阪を訪れたついででした。2度3度来日するようになると自宅のある別府に直接来るようになりました。初めのころは新婚さんの奥さんと一緒に、それから退職したご両親と、更に子供さんを連れて。こうして毎年、かわるがわるやって来ていましたが、コロナでここ数年は途絶えています。コロナが終息すれば、また、彼らもやって来るでしょう。40歳を過ぎた彼らと会うのは楽しみです。
 中国の大学から帰国後は、技能研修生のための西尾研修所や中国の研修所に行きました。その間、西尾研修所でともに研修を受けた同期、西尾13期会に参加してきました。その会は20年続き、今年で終止符が打たれました。北は北海道から南は九州まで毎年会場を変えて持たれました。参加者それぞれの豊かな生き方にふれ、多くを学び、多くの元気をもらいました。こんな濃密な人生を送ることができたのも日中技能者交流センターのおかげだと感謝しています。