日本語教師の記録 No.004
須田 三郎
【赴任勤務歴】2001年度から2002年度 河南師範大学 河南省 新郷市
※赴任勤務歴は派遣先学校の年度(9月始業から8月終業)に合わせて記載
※学校名は派遣当時の名称で記載
子供のころ、大学の中国語教授だった母方の伯父から中国の歴史や自然、人々の生活ぶりについての話題を耳にすることが多く、いつの間にか「大陸を訪れてみたい」という願望が広がっていたようです。現役当時はなかなか機会を得られず、定年退職を一年早めて日中技能者交流センターの事業に申し込みをしました。
喧噪の都会生活から逃れたい気持ちが強く、大陸でも地方での赴任を期待していたところ、思いがけず河南省の師範大学からお呼びの声が掛かり、即答でOKしました。
農村出身の女子学生が多く、祖父母などから戦中の一部の日本兵の残虐な行いを聞かされていたようで、初めて教室に入った時の学生達の惧れや警戒、不信の入り混じった複雑な表情は今でも忘れられません。
大学に進学するために親戚からも借財をしてきたという学生が多く、単位を落としたりはできないとの一心からか、真面目そのもので純朴、日ごとに閉ざしていた心を開き、笑顔が見られるようになりました。早朝から夜遅くまで、キャンパスの芝生のあちらこちらから音読練習の英語や日本語が絶えることがありません。長い教員生活を通じても、日本の高校生や大学生には見られない姿に驚嘆に近いものを覚えました。ちょうどその頃、二人の日本人留学生が同じ大学に滞在中でしたが、向学の姿勢は殆ど見られず、熱意が感じられませんでしたが、とうとう中国人教授が呆れて匙を投げたということを耳にして、とても残念に思いました。
日本語の学習は教室だけに限らず、前任日本人教師の発案で始められたという「日本語島」でも活発でした。週に1度、夕食後の2時間ほど、空き教室を借りて日本語専攻生が自由に集まってのフリートーキングの場ですが、日本語使用が大原則で、主に2回生・3回生が集まりアニメや男優、日本人の生活事情など、さまざまなテーマについて会話を楽しんでいました。私も殆ど毎回顔を出しましたが、その度に質問攻めに会い、若者達の新しい話題には付いていけず、あまり応えられない事態が多かった気がします。
ただ、そのような場にあっても政治に関する質問や話題は皆無といってよい状況でした。この点については、任期終了後帰国してからも大学教授や院生たちとの交流が今に続いていますが、政情や社会情勢について当方から話題を振っても、それについては全く触れられないケースが多く、人々が日常的に難しい立場にあって、表現にも配慮を余儀なくさせられているのであろうと思っています。
女子学生の多くは地元や周辺地域の義務教育教師志向のようでしたが、男子学生は経済的な豊かさに関心が高く、通常のアルバイトは言うに及ばず、学業の傍ら自ら企業を立ち上げ、商品の仕入れ販売に精を出すような強者もいました。また、卒業後に入社してからも、社員のスカウト行為が頻繁で、少しでも高額な待遇となると、会社には無断で転職するといった様子を見ることもありました。
中国には教師の日があるとおり教師が大切にされ、休日などに比較的経済的に豊かな家庭から食事に誘われることもしばしばでした。取って置きの茅台酒を手作りの餃子で楽しませてもらったり、学生の父親が自ら腕を振るって持て成してくれたりでした。
日本語の指導法は指導者によりさまざまで、私の2年前に就任していた先輩教師は徹底した「暗記指導」で、その週に学習したページを翌週までに完全に暗記するように求め、その成否を確かめるという厳しい指導でした。私は「会話指導」が主な役割でしたが、暗記という手法は取らず、学生たちの会話の中から誤った語法を集め、一般的な日本語に修正する作業を中心に授業を進めていました。しかし、後になって気付いたことは、徹底して暗記を求められた学生たちの日本語力は、私の指導法によった学生達よりもはるかにレベルが高く、特に中国人の苦手な長音の習得などには暗記指導の効果が大きいことを再認識しました。様々な場面を今になって振り返ると、こんな指導法があったのではないかと反省させられることが多く、悔恨の念が消えることはありません。
テレビを見る機会のない学生たちが多数私の部屋を訪ね、鮨詰めの状態でサッカーワールドカップを観戦、共に日本チームに声援を張り上げたことも新鮮な感動でした。
日本語専攻科の教授や職員、外事弁公室や教員専用食堂の職員、公用時のドライバーから用務員さんまですべての人々が温かく親切で、3年ほどの期間が瞬く間に過ぎました。日本でやり残していた務めがあり、任務を終え帰国せざるを得なくなりましたが、中国農村部の庶民や学生達との交流体験は世の中を広角度で見る必要性を再認識させられ、私自身を大きく成長させてくれました。私は今も趣味の世界で多くの若者と接触する日々ですが、彼らに海外での生活体験を持つように機会のある度に語り掛けています。