日本語教師の記録 No.003
佐々木 美千代
【赴任勤務歴】2001年度 上海鴻文国際商業職業技術学校 上海市
※赴任勤務歴は派遣先学校の年度(9月始業から8月終業)に合わせて記載
※学校名は派遣当時の名称で記載
2000年に上海澒文国際商業職業技術学校に派遣された。派遣決定が他の人より遅れ、出発が単独となった。学校は日本語科を新設したというだけで他の情報はなかった。とりあえず五十音図を作り、参考書などを揃えた。
空港に日本語が少し分かるという女性が来て、ホテルに案内された。それから三日間連絡が無く、学校の係らしき人物が現れ、もう少し待つようにといわれ、一週間過ぎた。やっと誰かわからない人物が現れ、彼の車で住居探しに出かけた。
子供の作文のように出発からくどく書いたが、住居も決まっておらず、正式な学校の挨拶もなくその間の不安は名状しがたいものだった。
学校には日本語のわかる職員が皆無で、以後は筆談で行われた。以前少し中国語を習ったことがあり、なんとか授業にこぎつけた。
授業を開始してみると、学生は教科書を持っていなかった。教科書も方針もなく、一体どうしたいのか、どうせよというのか。驚いた。友好第一にと何度も言われてきたので日本人教師の威信にかけてどうにかするしかない、と心を決めた。
発音から始めながら教科書を持たせるようにと、校長に進言した。が、学生の経済上の理由で無理だという。仕方なく手作りで教科書を作り、毎日印刷に追われた。53キロあった体重が瞬く間に10キロ減った。
学生は遠隔地、地方出身者もいて、彼らは真面目で真剣であった。上海っ子、都会子たちは授業中にしゃべったり、中には物を食べたりする者もいた。注意しても一向に聞かない。或る日私は「一寸待ってね」と言って、教員室から菓子を持ってきて、そして頬張った。学生の驚きようは大変なものだった。息を飲んで私を見つめた。私はにこやかに「先生が授業中にものを食べたら変ですか」と言うと、「よくありません」と一斉に返事がかえってきた。「まあ、生徒はよくて先生は駄目なんて、おかしいですねえ」。
それ以後は、私の目にはつきにくくはなったが。またこんなこともあった。二十余年経った今でも度々思い出して、苦い気持ちになる。注意しても声高にしゃべって授業を妨害する数名に手をやいていた。その時も一人の女子がひどかった。数度の注意の後私は彼女の頬を思いっきり叩いた。その瞬間、教室中がシーンと静まり返った。私は冷静であった、が叩いたとたん暴力はいけないという思いが体中を走り、血の気が引いた。学生たちの反応にも鋭さがあった。暴力=戦争。日本軍と同じことをやった。私はなんということをしたのだ。全身冷たくなった。友好第一であるのに、取り返しのつかないことをしてしまった。授業が終了し、庶務の人が来て、監督不行届ですまない。今後厳重に指導をすると言った。私は暴力は絶対許されぬことで、大いに反省していると陳謝した。心配だったのは其の後の授業であったが、学生たちは好意的に受け取ってくれたようだった。しかし、申し訳ないという思いは未だに消えない。
その件が教員にも伝わっていて、一人の女性教員が近づいてきた。私は緊張して身をすくめた。「よくやりましたね。一発でなく、もっとパンパンとやってよかったんですよ」と両手で自分の頬を叩く真似をしながら笑顔を向けていた。全員ではないにしてもそう考えていてくれる人もいるのだとわかって呆っとした。
いつも教員室に出勤すると、「おはようございます」と日本語でいい、続いて「早上好」と中国語で挨拶した。でも誰も目を向けないし返事も返ってこない。歓迎されていないと感じていた。退勤時には「お先に失礼します。さようなら」と会釈をして、「先走了 再見」といった。
ところが、その翌日、「早上好」と女先生が小声で声をかけてくれた。
そして、その日の昼食に誘われて、学食に行った。もう何か月も経っていたのでとても嬉しかった。
食事時間は質問時間となった。筆談のもどかしさはあったが、楽しい一時となった。
朝の挨拶は何のためか。あれは日本人のずっと昔からの習慣だ。好い習慣だ。気持ちがさわやかになるね。そういう感想が返ってきた。
しばらくしてもう一人女先生が昼食を同席するようになった。
「食事の前に両手を合わせて呟くのは何か」「あれは宗教か」。そのことが大変気になっていたという。宗教ではなく、感謝のことばだというと、誰に感謝しているのかと不思議がった。食べ物を作ってくれる農民に。生あるものの生命を頂いて我々は生きている。
このアヒルの肉も野菜も。生あるもの全てにありがとうと感謝する言葉だ、と。この意味に彼女たちは大相感動し、彼女たちは次から「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせて日本語でいうようになった。その話が伝わったのか、学食では他の人もやるのを見かけるようになった。
日本人を好意的に見ていないようだとは感じていたが、半年も過ぎた頃には教員室でもおはようと返事が返ってくるようになり、目も合わせる人もあらわれた(男性たち)。
様々な経験の一年が終わった。学生からは熱心だと評され、学校からは続けてやってほしいといわれた。世辞でも嬉しかった。帰国時、校長に三か月分のボーナスをもらった。
いよいよ別れの日、講堂で挨拶をすることになった。そのころに日本語の出来る職員が来たので通訳してもらった。
私には黙ってはいられないという気持ちを持ち続けていたことがあった。それは、先の大戦で犯した日本の大罪についてである。中国に来て素知らぬ顔で黙って帰っていくことがとても心苦しかった。その機会が与えられて呆っとした。
私は当時はまだ幼児であったが、成人して戦争について学んだ。今、私は、私たちを許してくださいという思いで胸はいっぱいである。今後再び戦争の起こることのないように平和を祈り平和の架け橋となって、小さな力ながら尽くしたい、と述べた。ふと、壇上から目にした光景に驚いた。食堂で働いていた人々が、調理人も講堂の壁ぎわに並んでいたのだ。この人たちの視線が非常に気になっていた一年であった。日本人をほんの一寸でも分ってくれただろうか。校長は挨拶を受けて論評し、ありがとうと言った。
これが一年足らずではあるが、中国での体験である。わずかな親交であったが、心温まる思い出となって、忘れられない。人は、人種や国の違いを越えて心を交わらせることができるものだと。