日本語教師の記録 No.002
日本語教師体験記
木内 賢隆
【赴任勤務歴】2001年度 長春師範学院 吉林省 長春市
※赴任勤務歴は派遣先学校の年度(9月始業から8月終業)に合わせて記載
※学校名は派遣当時の名称で記載
2001年8月、北京空港を発って長春に向かう機内で聞いた「北国の春」のメロディーが懐かしい。あれから20年の歳月が過ぎたのだ。時間過得真快! 遠い記憶をたどって、思い出の一端を記すことにする。
長春駅からまっすぐ南に延びる人民大街を中心に街路が広がっている。市内には旧満州国時代の遺構が数多く残されている。いずれも鉄筋コンクリートの立派な建物で今も利用されている。関東軍司令部跡は天守閣風の日本の城を思わせる建物で、共産党吉林省委員会が使っている。その他大学、診療所、図書館、銀行、小中学校、軍の病院などその使途はさまざまであり、それぞれ国の重点保護文化財に指定されている。満州国皇帝に据えられた溥儀の皇宮は一般に公開され、関東軍の監視下にあったその生活の状況がわかる。これらの遺構をめぐる時、この街がかつて新京と名を変えて中国東北部侵略の拠点とされた歴史に思いを致し、頭を垂れないわけにはいかない。
長春師範学院は吉林省の省立大学で、学生数は5700人(2002年度に1500人増の予定であったから現在は1万人を超えているであろうか)、全寮制で、学生は人文、数理、生化地、外語、美術、音楽、体育といった学院に分かれて所属している。外語学院には英語科と日本語科とがあり、外国人教師がそれぞれ2名ずつ配置されている。かつてはロシア語科もあったとのことである。
キャンパス内の6階建てアパートの5階に住んだ。エレベーターはなかった。入居当初、水道の水圧が低く、4階までしか水が上がらず大いに苦労した。ポリタンで運び上げたり、ミネラルウォーターを買って来て対応した。見かねた男子学生が5、6人でおおきな水桶に汲んで来てくれたこともあった。再三の交渉の末、モーターポンプを用意してもらったが、半月後の改良工事でやっと出るようになった。シャワーは電気で沸かすものをトイレの壁に設置してもらったが、バスタブはなく、簀子もない。そのままでは使えず、キャンパス内の浴池のシャワーに頼った。冬場になってからは冷蔵庫の梱包材の発砲スチロールを簀子代わりにし、ビニールカーテンを吊って何とかトイレ内のシャワーを使った。
学生はみな純朴で勤勉であり、目的意識を持って勉学に励んでいる。日本語科は女子学生が圧倒的に多く、男女とも服装は質素、地味で化粧をしている女子学生はほとんどいない。授業中は私語一つなく、欠席も少ない。教師を目指す師範学院であるが、日本語科の学生の場合、日本語能力検定試験の上級資格を取り、日本企業か、日本との合弁企業に就職したいという希望も多い。なお、日本語科は2000年度から本科に昇格したのだが、3年生は専科生で他大学の本科生との競争で就職に不利だと嘆いていた。なお、日本語科の場合、他大学の大学院に進学する者が10%ほどいるようである。女子学生たちが時々アパートを訪れてくれ、歓談したことも忘れがたい。
2001年暮れは長春師範大学で年を越した。授業は週5日制であるが、12月29日(土)と30日(日)を授業日として大晦日まで授業をし、その振り替えで新年の三が日が休みになった。本来、元日だけが休日なのだそうである。さて、30日の夜は日本語科の2年生17人がアパートの私の部屋に集まり、賑やかな年越しの会を開いてくれた、食材の買い出しから調理まですべて学生達が分担して準備したのだが、男子学生の調理の腕には大いに感心した。野葡萄のブドウ酒とビールで乾杯し、ゲーム、トランプ、百人一首などで楽しい時を過ごした。大晦日の夜は日本語科の1年生から餃子づくりの年越しパーティーに招待された。教室を飾りつけ皆で餃子を作る。小麦粉で皮を作り具を包んだ後、キャンパス内の食堂で蒸してもらう。出来上がった餃子を食べビールで乾杯、カラオケやディスコダンスを楽しみ、記念撮影をして退席した時は11時をまわっていた。外へ出ると頭上のオリオンがひときわ美しく見えた。学生たちから元気をもらった二日間であった。
長春師範学院での教師生活は、過ぎてみれば短い1年だったが、貴重な経験をすることができた。何よりうれしかったのは、真摯に学び、慕ってくれる学生たちに出会えたことであった。私語一つなく、すべてを吸収してくれるような瞳の輝きに接し、心洗われるような日々であった。派遣前の西尾市での研修で「小さな民間大使としての使命を自覚せよ」と言われて送り出され、それが実現できたかどうかは心もとないが、健康を損なうこともなく、任期全うできたことは何よりであった。
「長春師範学院校門にて」